35歳の哲学

〝迷った心が楽になる〟人生の考えを記録。書きたいことを書き記す。

簡単なことができない人たちから気づかされたこと

ヤフーニュースを読んでいると、衝撃的なタイトルが視界に飛び込んできました。

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まさにその通り!私も含め「簡単なこと」ができない人たちで溢れています。

たとえば、

  • 入室禁止!と書いているのに入室する人
  • 持ち出し禁止!と書いている物を持ち出す人
  • 傘入れ!と書いているのに傘入れに入れない人

入室禁止・持ち出し禁止・傘入れの表記を読まないのではなく、〝読めない〟人たちがいるのです。

今回注目したい内容は、先ほど紹介した記事のコメント欄にある上位3件の主張です。

<目次>

 

1.読まないのではなく、読めない人たち

「当日は会計係の手間を省くため、お釣りの準備はしません。大人の配慮をお願いします」と事前に何度もメールや掲示板で回したのに、半分くらいはお釣りを求めたことがあった。
同じ集団で、次は「お昼は〇〇弁当の仕出しです。アレルギーなど諸事情のある人は昼食は持参してください。コンビニや外食する場所は付近にありません」と書いても半分くらいは「〇〇弁当は嫌いなのに!」とか「コンビニくらいあると思ったのに!」と当日文句を言っていた。
なるほど、あの人たちは「読まない」のではなく「読めない」人たちだったのか。
当時は「なぜここまで丁寧に何度も書いているのにちゃんと読んでくれないんだ?」と思って立腹していたが、そもそも読めないんだね。納得。

必ずと言っていいほど、その団体の約半数は居ますよね。読まないではなく読めない人たちとも言えますが、その意味を読めない人たちとも言えます。

たとえば、学生時代に会計係などの役割から気づきがあった人ほど、社会人になってから協力的な一面をもっているはず。組織に一人、協力的な人がいますよね。

仮に、学生時代に役割を担っていたとしても、「今回もたのしかったね」で終えていたのなら、気づきにはならなかったのではないでしょうか。

文章を読めないからこそ、その意味を読めない大人たちの真実と言えます。

 

2.学力よりもマナーや教養の差

これは本当。米国で働いていたころ、信じられないほど有能な人とその逆を近くで見ていたが、これはそもそも与えられる仕事と待遇差がはっきりしていて自然なことだった。日本に帰ってきて、労働者が米国よりは相対的に均質だと感じている。しかし、近年、直感的には日本でも能力差は拡大傾向だと思う。学力とかよりもマナーや教養の差が大きく、これは階級社会化なんじゃないかと。

 私も、学力よりも教養の差が大きいと考えています。なぜなら、相手の役割を想像しない人(=教養の差)からです。

一般に、教養とは常識や知識の類似語として捉えられています。大辞林第三版によれば、社会人として必要な広い文化的知識と解説されていますが、具体的に定義化されている言葉ではありません。

私は教養の語感として、幅広い知識=教養と解釈していました。ただ、幅広い知識を持っているだけが教養かと考えると、違和感を覚えるのは私だけでしょうか。

近年、書店で販売されているビジネス書の多くには、著者定義の教養本が出版されています。多様な定義はあるものの、それはまるで幅広い知識=教養がすべてと言っているかのようなものばかり。

確かに教養は必要です。幅広い知識があることで、問題解決して現状打破に至るまでのヒントは得られますよね。

しかし、教養=幅広い知識であるならば、その知識を常日頃から活用して知恵や思いやる力にシフトされている人とそうでない人には、大きな差が生まれているのではないでしょうか。

それゆえ、私も教養の差が大きいのではないのかと結論づけます。

 

3.読解力の平均値向上

語彙力がある人でも、情報を精査する能力が低い人がいる。
いろんな事を知っている割に、調べ物を正確に行えず、欲しい情報を得られずに諦めて人に頼る。
逆にあまり知識のない人でも、与えられた情報から欲しい情報を得ることが得意な人もいる。
自分の考えをアウトプットするのが苦手な人もいるし、感想を言うのが苦手な人もいる。
国語力だけでなく、判断能力、把握能力、自主性や主体性も関わっている。
それぞれの得意な分野から見れば、こんな簡単なこと...と思いがちなのは得意不得意の凹凸を考慮しなければならないが、読解力の平均値向上に関しては、情報社会となり、IT文化の広がっている現在、その国全体の社会的能力の維持・向上を継続するには、力を入れて取り組まなければならない事だろうな。

読解力に関して、社会問題とも言える主張ではないかと、私は捉えています。なぜなら、社会で生きるために不可欠な能力であるためです。

一般に、読解力とは読み解く力と理解されています。デジタル大辞典によれば。文章を読んでその内容を理解する力と記載されていますが、読解力とは文章から読み解くだけではと私は考えています。

例えば、文章から読み解き想像をします。そして想像から、人物・建物・企画から情報を読み取ることができます。

それはまるでTVドラマを見ているかのような映像です。人物のコミュニケーションが行われ、体温が伝わるかのようなやりとりがなされます。

しかし、読解力とは、文章から読み解く力と理解されている現代では、その先の想像から読み解くことを実行されている人が多くはないのではないでしょうか。

それゆえ、社会問題化しているとも考えられるほど、読解力の違いが生まれています。

 

3.まとめ

今回、記事のコメントから独自の視点で考察しました。

「1.読まないのではなく、読めない人たち」でもあったように、

「当日は会計係の手間を省くため、お釣りの準備はしません。大人の配慮をお願いします」と事前に何度もメールや掲示板で回したのに、半分くらいはお釣りを求めたことがあった。

その理由は、読まないのではなく、読めない人たちだったと言えます。しかし、簡単なことではあるけれど、できない人たちもいるということは理解しておきたいですね。ただし、理解できないからこそ不満をぶちまけるような教養のなさを主張する人間にはなりたくないと、やはり思ってしまいます。