35歳の哲学

〝迷った心が楽になる〟人生の考えを記録。書きたいことを書き記す。

彫刻の森美術館×富士の広見公園(歴史館)から学ぶ!正解ほど考えず〝ナゾ〟ほど考える

秋と言えば紅葉です。と言っても、紅葉を楽しみたいというよりも、花より団子であり、息抜き・気分転換・リフレッシュのため。そして、デートをする理由をを探しているようなものでしょうか。

その場所へ行きたいけれども、行きたいだけではないのです。もちろん、紅葉を楽しみたいと思う気持ちもありますが、個人的には後者のほうが自分に合っています。

今秋の旅は、神奈川県は箱根町にある彫刻の森美術館×富士の広見公園(歴史館)へ行ってきました。

 

箱根 彫刻の森美術館 THE HAKONE OPEN-AIR MUSEUM

 

 

fujipark.com

 

正直なところ、美術館や歴史館へはあまり足を運んだ経験がありませんが、過去最高といえる旅となりました。その理由は、「正解ほど考えず〝ナゾ〟ほど考える」経験ができた場だからです。

 

<目次>

 

1.正解(または正解に近い)ほど考えず、〝ナゾ〟ほど考える

日常生活やビジネスの現場においてもあることですが、正解(または正解に近い)ほど私は考えません。

正解を定義化するには今の私には難しいと考えますが、使用感としては(雨が降り始めた状況から)〝傘を持っていて正解だった〟のように使います。

この使い方からすれば、多くの人たちの共感は得られる一方で、雨合羽を愛用されている人にとっては不正解だと言えます。

たとえば、歩行と自転車走行では、後者の方が雨合羽を使用する人が多いと考えられます。自転車走行中、片手ハンドル・片手傘では危険運転になりかねません。そのような運転をされている人には〝個人的には近寄りたくない〟が本音。

仮に、私は自転車でも傘を使用する!と主張されていたとしても、人の安全を守る道路交通法の観点から言っても、違反行為に該当するはずです。

これらから考察すると、人の安全を考えた結果、〝雨合羽にして正解だった〟と使用できます。

正解(または正解に近い)とは、人それぞれの知覚・経験・固定観念からできていると理解することができれば、正解ほど危いものはないと気づくことができるはず。その状況によって正解は異なり、正解がすべてではないことに気づくことができるのかもしれません。

2.ナゾが多い彫刻の森美術館

彫刻の森美術館を一言で表現するのなら〝ナゾ〟です。フシギが沢山つまっている場所で、一目見ただけでは理解できない自分がいました。

たとえば、(タイトルは忘却しましたが)出入り口付近にある馬と遊んでいる人。これを思い描いた人の思考を想像してみると、大地と大空を縦横無尽に駆け巡る馬と人の姿が浮かびだします。

馬・人・想像

空飛ぶ馬とは、空想上の生物と考えられます。ペガサスと命名されたその馬は、空を飛ぶと知られています。

馬・人の違いは、見た目や知力・体力の違いはあるものの、哺乳類・共存・大地を歩行する共通点がありますよね。

しかし、この彫刻をみていると、馬も人も、大地から遠く離れた空で戯れています。元々、大地を駆け巡っていた馬と人だけれども、私には縦横無尽に駆け巡ることができた喜びが伝わってきました。

その解釈

人は離陸することができないという思い込みがあります。飛行機などの手段はありますが、ここでは思い込み=固定観念に焦点をおいています。

常識や正解とは、個人の思い込みに過ぎないのではありませんか。私は、そう思っています。新しい経験をしたくても、できないときや諦めてしまうときって他責になってしまうことはありました。籠の外へ飛び出したいと思っていても、なかなか飛び出せないということもありますよね。

私たちが抱いている常識や正解とは、今までの自分が作り出した結果であると気づいたとき、大きな一歩を踏み出すのです。

理解

これらからわかることは、

  1. 彫刻を見る
  2. 情報を読み取る
  3. 疑問が浮かぶ
  4. タイトルを確認する
  5. 納得する
上記が今までのプロセスですが、ナゾが多いものほど、3と4の間には〝ディスカッションの時間〟を非常に多く取っているように感じます。
想像力を活用した体験の場は、楽しいので記憶にも残ります。しかし、一目で〝正解〟がわかるような彫刻を見て、正解には想像力の欠如があると気づかされました。

 3.富士山かぐや姫ミュージアムと広見公園の学び

箱根の次は、富士へ。ここでの気づきは、非常にためになる時間を過ごせたと感じています。

fujipark.com

広見公園の彫刻といえば、〝友愛〟や〝信頼〟が当てはまりました。よく言えばわかりやすい、しかし、それ以上の発想が芽生えなかった彫刻でした。

個人の主観であることは理解しているものの、正解といえる考えであったがため、それ以上の視点が生まれなかった事実は否定できません。

正解がわかるとすっきりするけれど、正解と言える解にたどりつくと、それ以上考えない自分の性格が見えたような気がしました。 

4.おわりに

 今回、「彫刻の森美術館×富士の広見公園(歴史館)から学ぶ!正解ほど考えず〝ナゾ〟ほど考える」について書き出しました。

正解が見えると、それ以上の観点では考えない自分の性格とこれまで同様の結論づけをしてきたのかもしれないと気づかされました。

しかし、これらの体験から気づかされるものは、これまでの経験から常識や正解を作り出しているのであれば、正解にこそ、隠れたナゾがあるはず。

かくれんぼをしている友人を探すほど、難しくて楽しいものはありません。同様、隠れたナゾを探す楽しさがあると気づかされました。